2019/02/22

退職

私こと、この度産経新聞社の大規模リストラに伴う希望退職募集に応募し、本年3月31日付をもって、退職する事となりました。
後任人事が4月1日付となりますので、3月いっぱいきちんと引継を行いたいと存じます。

思い起こせば昭和62年3月30日に入社して以来、ちょうど32年。入社した時の定年年齢になってしまったので、まあ十分働いたかなと思います。
仕事も自分の人生もジェットコースターに乗っているようなものでした。
最後はジェットコースターから別の乗り物に飛び移るような感じになりますが、それもまた人生と覚悟を決めております。

みなさまには、様々な形でお世話になり、本当にありがとうございました。
本来なら、おひとりおひとりにご挨拶させていただきたいのですが、なかなか難しいので、このブログをもってご報告させていただく失礼をお許しください。

ご多分に漏れず、有給、リフレッシュ休暇の類がたんと余っておりますので、今後3月末まで、
適宜消化させていただきます。その間に就職活動を開始しようと考えております。

みなさまには在職中、大変お世話になりました。
3月末まで残り短い期間ではありますが、よろしくお願い申し上げます。

産経新聞社並びに関係各位のみなさまのご活躍、ご健勝をお祈り申し上げます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/02/12

VS高血圧

 今年最初の本稿「年男」で、185-115と、こそっと告白したのだが、昨年末血圧が上185、下115の人生最高記録をマークした。実はその前から午後になると妙に頭が痛い日々が続いていたので、会社の診療所に備え付けの血圧計で毎日計っていたところ、上が170から180台、下が100を切ることがなく、納会の12月28日、上記最高記録を達成したのだった。


 年明け以降もそのままで推移し、痛風の薬をもらいに行った1月17日、看護師さんについに診療所のお医者様にご相談と相成った。結果、アムロジンOD錠5mgを毎朝1錠飲むとともに、塩分を減らし、ダイエットに励むという高血圧患者確定となったわけである。


 それから約1ヶ月近く、とりあえず、正月に95kgあった体重は糖分・揚げ物を極力控えることによって、89kgまで減らし、塩分を控え、薬のおかげでとりあえず血圧は上140前後、下90台というところまでは落ち着いてきた。


 当面の体重目標は85kgだが、前回2005年のスーパーダイエットのように急ぎすぎるといろいろと弊害もあるので、餃子は控えずゆるゆるとやっていこうと思う。


 あっ、もちろんタバコは止めないよん。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2011/02/06

千葉駅ビル閉店

閉店のお知らせ

 平成23年1月31日、千葉駅ビル=PERIE1が閉店した。10年前に閉店し、今は43階建ての高層マンションになったセントラルプラザ同様、子供の頃から親しんだ遊び場所がまた一つなくなった。昭和38年生まれの私と同じ、今年48才になるビルであったが、千葉駅舎の建て替えに伴い閉店した。


 千葉駅舎の建て替えに関しては、およそ1年前にJR東日本から正式発表があり、駅構内の工事が各所で既に始まっているので、センプラの時のような感慨は全くない。


 子供の頃、千葉駅ビルの屋上で遊具に乗ってはしゃぐモノクロ写真がアルバムに残っている。ここ10何年も屋上に行ったことがないので、最近どうなっていたのか分からないが、千葉駅ビルの屋上に円盤型の建造物(下の写真左上)があり、私が子供の頃は屋上展望レストランだった。しかも回転していた。

竣工当時の千葉駅ビル
竣工当時の千葉駅ビル(閉店間際の千葉駅ビルで展示されていた写真より)


 千葉駅は、利用者の方はよくご存知のように、東京方面からは総武緩行線が1・2番線ホームに入り、総武快速線が3~10番線の4つのホームに分かれて入る。千葉から外側へは房総方面が3・4番線の内房線と5・6番線の外房線で駅舎の南側、銚子方面総武本線が7・8番線、成田線が9・10番線で駅舎の北側にあり、5つの島ホームが駅ビルを挟んで並んでいる。そして、東口となる駅ビルの真ん前には、千葉都市モノレールの千葉駅がでんと構えている。つまり、千葉駅ビルは5つのホーム(10本の線路)とモノレールに囲まれた三角地帯になっている訳だ。


 千葉駅のこの構造は駅の建て直し以前に、総武線快速電車にどのホームから乗ればいいのか素人には全く分からないという問題と、上記4つの県内ローカル線のどれか一つでもダイヤが乱れれば、入線ホームが大混乱し、全部の路線のダイヤが混乱し、横須賀線まで影響が出るという問題を抱えている。この問題は千葉県の地理的問題なので、駅ビルを建て直したからといって解決する訳ではない。


 それはともかく、一昨年暮れ、千葉駅舎建て替えの正式発表があった時、この構造を知っている人達はみんな思ったはずだ。建て直すのはかまわないが、その前にどうやって駅ビル壊すんだ?


 最近、大手町・丸の内再開発の工事現場をあちこちで見ているので、とりわけ敏感なのだが、ビルの取り壊しには各種重機を屋上に降ろして、上からだんだん壊していく必要がある。ところが、上記のように雪隠詰めの構造になっているので、ショベルカーなどを駅ビルの屋上に降ろすのはかなり難しい。重機を持ち上げるためのクレーンを設置する場所がないのだ。それこそヘリで運んで降ろすのかということになるが、そんなの大震災の現場でもない限り見たことがない。


 とりあえず、駅ビル後ろのJR施設の入った建物を先に取り壊すようで、囲いが出来ているが、これをどうやって壊しているのか見てみたいものだ。これから5年ほどかけて、千葉駅ビルの建て直しが行われる訳だが、その経過は実に興味深いものがある。今後楽しく見させていただこう、と思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011/01/01

年男

 あけましておめでとうございます。


 さて、黒沢年男ではないと言っても、もうダジャレにすらならない今日この頃であるが、平成23年(2011年)、うさぎ年である。昭和38年生まれの私は今年48才。年男である。


 先日あるバラエティ番組で野際陽子が生まれてから今までより、明治維新の方が近いと言っていたのだが、私の場合、生まれてから今までより第2次大戦を飛び越えて、第1次大戦の終戦の年の方が近い。


 前回の年男は平成11年(1999年)、このホームページを開設した年に当たる。ノストラダムスの大予言がとりあえず外れた年だ。あの年はまだ36才。長野担当2年目の年だった。今36才の人を見ると実に若い。とすれば12年は結構長いのかもしれない。


 長野に居たのはついこの間のような気がするのだが、もう12年だ。その12年前は入社した年だ。入社から長野までの12年間は年数では人生の1/4だが、3/4くらいの比重を占める波瀾万丈の年月だった。


 さらにその前の12年は小学校6年から大学を卒業するまで。俗に青春時代というやつだ。そして、今から12年後の次のうさぎ年は平成35年(2023年)。いわゆる還暦というやつである。


 「生まれてから小6まで」、「小6から入社まで」、「入社から長野まで」、「長野から今日まで」と、それぞれ12年区切りで考えると、「今日から還暦」まではあっという間だろう。おっと、「から長野まで」とか「長野から」とか、どんだけ長野好きなんだ。


 その前に、次の12年が全う出来るのか?185-115で。っていうか、鷲宮神社の初詣中継凄すぎ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010/10/08

祝・中国籍初ノーベル賞

 中国の民主活動家で現在投獄中の劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞した。中国籍の人物が初めてノーベル賞を受賞ということで、実におめでたい限りだ。

 言ってみれば、ナチスドイツ治世下でユダヤ人排斥に反対運動を繰り広げる反ナチ活動家が受賞するようなもので、中国という国の実体を世間に考えてもらうのに非常によい教材となる平和賞だと思う。

 日本じゃあ、米国籍の南部陽一郎博士も日本人ノーベル賞にカウントして18人が受賞なんて言うのだが、中共政府としては、この受賞を認めないだろうし、高行健氏(2000年文学賞・フランス国籍)も認めないから、今後続出するであろう中国人ノーベル賞受賞者の数からは、この2人を外すのだろう。

 中国がナチスドイツに勝るとも劣らぬ全体主義国家であることが、世界中の耳目を集める今こそ、尖閣で海保に体当たりした中国漁船の犯罪証拠ビデオを世界中に公開すれば、より一層効果があると思うのだが、仙石由人だの菅直人だの中華人民共和国日本自治区政府を代表する民主党連中には、中央政府に逆らう根性などないから、期待は出来ないな。

 ただでさえ、外国人地方参政権を導入して沖縄を中国に、対馬を韓国に合法的に売り渡そうとしている民主党である。円より子あたりが画策する外国人住民基本法なんて、日本の新彊ウイグル自治区化を促進する法案だし、表向きどんなにやさしくにこやかに振る舞っても、亡国・売国政党であることに違いない。こんな政党に日本を任せたんだから、どうなっても文句は言えないところだが、そう言う意味では、今夏参院選で民主党を勝たせなかったのは、滅亡一歩手前で踏みとどまったと言えるかもしれない。しかし、自民党にも加藤紘一のような国賊が居る訳だから、まだまだ油断は出来ない。

 劉暁波氏ノーベル平和賞受賞は日本を亡国から救うきっかけに出来るだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/09/26

黙らないなら鳩山には死んでもらいたい

いい加減黙って引退しろよ馬鹿。


「私なら温家宝首相と腹割って話し合えた」鳩山氏が首相を批判
http://www.sankei.jp.msn.com/politics/policy/100925/plc1009252209033-n1.htm

「証拠のビデオ、見せればよかった」鳩山氏が政府の対応批判
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100925/plc1009252012029-n1.htm

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/09/25

不思議な内閣の無思慮な政策

 つまりはそういうことだ。としか言いようがない。

 今回の件については、いろんなところでいろんな人が批判しているし、いまさら私が何を言っても誰かの二番煎じに見えてしまうので、静かにしていようと思ったが、一応ブログのコマ送りだけはしておこう。

 自民党にお灸を据えるつもりで、民主党に投票し、政権交代させた有権者があの船長を釈放させたのだ。
民主党を批判しても仕方がない。批判されるべきは平和ボケの戦後民主主義にどっぷり浸かった日本人1人1人なのだ。

 私も含めてである。民主党に政権渡したら大変な事になりますよとか、もはやこれまでとか言いながら、それを阻止するための行動を起こさなかった。民主党に投票した人と同罪である。

 沖縄(尖閣ではない)は中国に取られるよ。とずっと言ってきながら、何の行動もしていない。今のところ米軍が撤退することは考えられないからだが、普天間問題から先、日本政府、米国政府、沖縄県の3者対立が続けば、中国は本格的に沖縄に手を突っ込んでくるだろう。

 沖縄に独立運動をでっち上げ、米軍撤退の世論を煽り、政情不安に陥れた挙句、傀儡に独立宣言をさせる。武器と一般人になりすましたコマンドを送り込み、治安を悪化させ、米軍と自衛隊に治安出動か撤退かの選択が迫られる事態を作る。
 どちらに転んでも最後は人民解放軍が登場して、沖縄の独立から、中国の一自治区へとシナリオを進める。

 こんな事態が起きても、民主党政権には何も出来ず指をくわえて沖縄を中国に差し出すしかないだろう。

 今回の船長釈放を見て、中国の日本侵略は序盤戦から一気に詰めの段階に入るなと思う。
日本が世界中から嘲られるとか、そんな生易しいものではない。李鵬の予言が現実になりつつあるのだ。

 あー、嫌だ嫌だ。今から8年くらい前に、このコラムの前身で「日中友好なんていらない」と書いたのだが、もはや日中友好などというものはなく、隷属か滅亡かの二者択一のところに差し掛かってきている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/09/18

不思議な内閣

北方領土はロシアに不法占拠されていると堂々と言える立派な人が外務大臣かと思えば、
駐韓国日本大使館にデモをかける国賊が国家公安委員長として全国の警察の頂点に立つ。
不思議な内閣だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/07/28

あれこれ

 桑田佳祐が食道ガンだと発表され、こりゃあ何か書かなくちゃと思ったら、千葉景子法務大臣が死刑執行命令書にサインし、本日民主党政権初の死刑が執行された。

 そもそも死刑廃止論者を法務大臣に任命するのもいかがなものかという事はさておき、自分の主義主張はともかく、職責は職責だということを、本当の意図は違うかもしれないが、示したのだから、それはそれで敵ながらあっぱれといいたい。

 自ら死刑執行の現場に立ち会ったというのもいい。どうせすぐ法務大臣やめて、また死刑廃止運動やるわけだから、職権濫用かもしれないが、現場を見てから今後の自分の主義主張に活かすのはよいことだ。是非とも犯罪被害者の集会にも出てもらいたいものである。

 政治的パフォーマンスだとか、落選したのにどうとか、いろいろ声があるようだが、主義主張と宗教的信念の違いを見せつけてくれただけでも実に価値のある死刑執行命令だったと思う。

 まだあと2ヶ月近く在任するんだろうから、せめて、あと5人くらいサインしてから辞めて欲しいものだ。107人も確定死刑囚が居て、その大半が、誰がどう見たってこいつは死刑だってやつばかりなんだから。


 それにしても桑田のガンには驚いた。初期の食道ガンだというが、我々拓郎ファンにとってみれば、7年前の拓郎の肺ガンが真っ先に思い浮かぶ。別に桑田のファンでも、サザンのファンでもないが、何という因縁だろうと思う。

 拓郎が片肺を1/5切除した手術後の闘病生活中、桑田は自身が1985年(そうまさしく昨日のこのブログに書いたつま恋の前後に流れた引退説の時)に発表した、拓郎に引導を渡す歌「吉田拓郎の唄」の歌詞を変え、エールを送っていた。

 80年代前半、ブレークしたての桑田佳祐について、拓郎は自分の番組でも、桑田との対談番組でも桑田には勝てないと絶賛していた。桑田VS長渕事件の時も明らかに桑田の肩を持った。一方、桑田も先述の「吉田拓郎の唄」で拓郎への想いを表現し、引退の噂された拓郎にカツをを入れていた。その2人がともにガンになった。因縁と言わずにはいられない。

 拓郎もコンサートツアーの直前に健康診断を受けて早期発見された。片肺の1/5を切除し、3年後にはかぐや姫とつま恋をやった。今日まで再発していないので、ガンについてはもう大丈夫なのだろうと思う。桑田の食道ガンも内視鏡手術の出来そうなステージらしいので、おそらくシンガーとしても復帰出来るだろう。いや、是非元気に復帰して欲しい。拓郎のためにも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010/07/27

吉田拓郎One Last Night in つま恋25周年

 1985年7月27日から28日にかけて、静岡のつま恋で「吉田拓郎One Last Night in つま恋」というオールナイトイベントが行われてから、ちょうど25年である。ちなみに、その前のつま恋から10年、篠島からは6年経っていた。

 大学3年生だった私は、6年前の篠島同様、中学の同級生で、私にとっての拓郎の師匠である大ちゃんと一緒に参加した。当時、塾講師のバイトをしていた私は夏期講習真っ只中のこの時期に無理矢理3日間の休みを取って、おまけに休み明け出勤で声が潰れていたため、大顰蹙を買ったのを鮮明に覚えている。

 この頃拓郎は特にラジオ番組を持っていなかったし、今みたいに「ぴあ」や「ローソンチケット」からメールが来る訳でもないので、どうやってコンサートの告知を知ったのか。今の情報溢れる時代にしてみれば不思議なのだが、考えてみれば、雑誌「ぴあ」の全盛期であり、あの当時は毎週ぴあを見て、コンサート情報を漁っていたような気がする。

 この年6月にはニューミュージック界の超豪華メンバーを集めて、国立競技場で「ALL TOGETHER NOW」というイベントがあり、拓郎は進行役をハイテンションで務めていた。一方、同じ6月に発売された当時の最新アルバム「俺が愛した馬鹿」では、拓郎自身を葬るかのようなジャケットと、いくつかの曲の歌詞から、このつま恋で拓郎は引退してしまうなんて噂も流れていた。

 いずれにせよ、拓郎のコンサートを見られるのはこれが最後かもしれないとの想いを抱き、コンサート前夜の7月26日夜、東京駅から東海道線で静岡に向かって出発した。つま恋や掛川駅近辺での徹夜は禁じられていたため、掛川に向かって行けるところまで行って、そこから始発で行こうと考え、結局我々は最終電車で島田駅に降り立った。

 同じ考えの奴はいるもので、島田駅周辺には明らかに地元の人間ではない若者が何人かたむろしていた。その中の埼玉から来たという、2つ年下の女の子2人組に声をかけ、駅前の居酒屋で時間を潰しながら盛り上がってしまい、結局始発を待たず、4人でタクシーに乗り、つま恋に向かう事になった。

 今地図を見ると、何でこんな距離をタクシーで行ってしまったのか、当時の金で1万何千円もかけてと思う。おまけに到着して、ここだと並んだ列は徹夜組が並んでいた列で、懲罰的に入場が後回しにされた列だった。掛川駅からのシャトルバスで来た連中が、どんどん前へ行く。自分の判断の悪さを悔やんだものである。

 そんなハプニングもありながら、開場までの行列で一緒になった1つ年上の京都から来た、確か村上さんというにいさんと5人組で、いざ会場へとなだれ込み、ステージ正面のミキサー席前に陣取ったのであった。

手元のチケットによれば午後1時の開場だったはずだが、炎天下かなりの列が出来ていたので、もう少し早く開場したような気がする。

 開演は午後7時。6時過ぎくらいから、客席のボルテージはどんどん上がり、開演30分程前に後藤由多加が登場して前説を始めると3万5千人が一体になっていき、タクローコールがそこら中から湧き上がった。そして、ついに開演のアナウンス、メンバーが次々とステージに上がってくる。普通ならいきなり1曲目が始まり、興奮も絶好調というところだが、ステージセンターに立った拓郎の第一声は

「愛してるぜ」

だった。

 スタッフや地元など関係者への感謝の言葉からメンバー紹介へと続き、「いくぞっ」と始まった1曲目は、「悲しいのは」だった。そういえば、つま恋の1曲目予想の話を拓郎がどこかでしていた。絶対に分からないだろうと言ってた覚えがある。ということは、当時やっぱりどこかでラジオ番組持ってたのかも。

 4部構成だったこのコンサートは、ファーストステージが拓郎オンステージ。
 セカンドステージは猫、愛奴、新六文銭、かぐや姫と再結成が続き、アルフィーの拓郎メドレー「スターズオン23」で締めくくるグループゲストのステージ。
 サードステージは山本コータローに始まり、杉田二郎、武田鉄矢、かまやつひろしとボーカリストのゲストが登場し、その後拓郎のワンマンへという展開。
 そしてラストステージは石川鷹彦、加藤和彦に始まり、次々入れ替わるかつて一緒にプレイしたミュージシャンのゲスト。と、超豪華なラインナップで、途中拓郎がMCで語ったように、拓郎自身がえらい気分のいいステージで、我々にしたって、高中正義と後藤次利がギターとベースで加わった「落陽」は圧巻としか言いようがなかった。

 終了予定は日の出直前の朝4時半だったが、アンコール含め残り5曲の「7月26日未明」のところで完全に夜が明けてしまった。拓郎も、「朝までやるぞってのはやって来たけど、朝過ぎてやるぞってのは、俺も経験ねえなあ」と笑っていた。「よし、いこう」と、声をかけて始まったラスト1曲前「俺が愛した馬鹿」は異様に気合いが入っていた。ラストナンバーの「又逢おうぜあばよ」では、感極まった拓郎が不覚の涙。アンコール冒頭では、「今あった事は忘れろよ、今あった事は忘れろよ。人に言うんじゃねえぞ、バカヤロー」と叫び、「この指とまれ」、「明日に向かって走れ」と意味深な選曲で全てが終わった。朝5時は完全に回っていたんじゃないか。

 コンサートが終わった後、掛川から新幹線で帰って来たのだが、会場から駅まで歩いたのか、シャトルバスに乗ったのか、しばらく寝ていたのか、完全に夢遊病者状態で覚えていない。ただ新幹線の中で録音していたテープを聞き返して、歌いまくる自分の声の大きさに呆然としたのを覚えている。だからせっかくフルで音源持ってるのにYouTubeなんかに今でもアップ出来ないんですよ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010/05/19

眼鏡使用者の気持ちがほんの少しだけ分かった

 両目0.01という人には誠に申し訳ないのだが、その150倍の視力を誇っていた私の右目の視力が僅か2年で40倍まで落ち込んでしまった先日の健康診断結果に驚き、また最近毎日夕方になると頭が痛くなるという体調に不安を覚えて、耳鼻科に続き、神田に眼科を開拓しに行った。

 眼科なんて、小学校の時に結膜炎で行って以来40年ぶりくらいな訳だが、考えてみれば耳鼻科も中耳炎で行って以来40年振りだった。40年前の眼科の様子は覚えていないが、先生は女医さんだった。今回もまた女医さん。眼科は女医さんばっかりなのだろうか。ちなみに40年前に通った千葉市中心部の眼科は今はなく、その珍しい名前のついた内科と整形外科が近くに一つずつある。きっとあの先生の子供もしくは孫達がやっているのだろう。

 さて、受付で健康診断の結果表を見せ、2年前1.5だったものが昨年0.9になり、今年は0.4という急激な視力低下を説明し、検査を受けたいと告げ順番を待った。

 しばらくして、受付の看護師さんに呼ばれ、まずは視力検査しましょうということになった。昔視力検査と言えば、何メートルか離れたところに立って、片目をおたまの様な物で隠して、Cの字の開いた部分がどっちに開いているか答える物だった。今、会社の健康診断では双眼鏡のような顕微鏡のような器具を覗き込んで、Cの字の開いた部分がどっちに開いているか答える物になっている。今日行った病院では診察室に入ると昔のように何メートルか先にCの字がいっぱい書いてある電光掲示板がある。しかし、そこは素通りして、その先においてあった双眼鏡のような器具を覗き込むことになったので、さすがに今は使わないのかと思った。で、その器具を覗き込み、中の電気が点くと、そこにあったのは、Cの字の羅列ではなく、赤い丸が点滅したり、遠くに家の絵があったりして、その絵の焦点があったりぼけたりしている。しかも、質問はされない。目を大きく開けて下さいと言われるだけだ。何か眼球や瞳孔を調べているような感じだった。

 なんだかよく分からない内に、その器具での検査が終わり、続いてさっきの電光掲示板の数メートル先の椅子に座るように指示された。やっぱりこれが視力検査だ。縁だけの眼鏡に左だけ目隠しを入れてかけ、右目から検査。全然駄目。じゃあ今度はこれでと右目側にレンズを装着すると、驚くほどクリアに見える。一方左目は問題なし。

 続いて先生の診察となり、また新たな覗き込む器械の出番となった。最初に点眼液のようなものを両目にさし、目に思い切り光を当てられて、先生の側から患者の目を顕微鏡で見るような器具でまず診察。続いて眼底を調べると言うことで、器具を覗き込み、中にある青い○を見るのだが、目を大きく開けてと言われながら、一方で瞳が小さい瞳が小さいと言われ続けていた。結局写真を撮っていたようで、後から見せられた眼底の血管の写真に異常はなく、眼底眼球とも問題なしということである。単純に右目だけ近眼が進行してしまったということのようだ。パソコンを斜めに見ているのではないかとの指摘には肯かざるを得なかったが、携帯ばっかり見ていることは黙っていた。結論としては、しばらく様子見ということで、遠くを見るときは左目で、近くを見るときは右目でというよく分からない診断結果とアドバイスとなった。いずれにしろ、右目の視力が回復することはないものの、まだ眼鏡をかける段階ではないとのこと。

 やっぱり、昔のタモリのような眼帯をかけて用途に合わせて右目左目を使い分けるしかないかな。それにしてもレンズを入れて右目で見たときのクリアさの感動は、両目1.5で何でも見えるのが当たり前だった自分にとって非常に新鮮だった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010/05/02

続・衝撃の数字

 左1.5右0.4。

 昨年の今頃、右0.9になってしまった事を衝撃の数字として書いていたのだが、今年の健康診断では、更に数字が悪化し、こんなスーパーガチャ目になってしまった。

 0.4は運転免許の片目の視力0.3以上に対し、裸眼ではぎりぎりの数字である。左目は1.5をキープしているものの、視野150°が条件となるため、来年免許更新を迎える身としては崖っぷちに立たされている。

 ガチャ目であってもきちんと見えているのは、右目と左目がそれぞれ見ている画像に対し、脳が矯正をかけているからであって、目を開けているだけで、脳にも左目にもえらい負担がかかっている事は想像に難くない。

 やっぱ、星を見続けないとだめだなあ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2010/01/15

鼓膜に穴を開けてチューブを入れる(最終回)

 鼓膜に穴を開けてチューブを入れるシリーズもついに最終回を迎える事になった。

 昨年6月10日に突如として、右耳が聞こえなくなり、慈恵医大の救急外来に行ってから丸7ヶ月。本日をもって治療が終了し、神田の耳鼻科の先生から、

「また何かあったら来て下さい」

というありがたいお言葉を頂戴した。

 最後の聴力検査に臨むにあたって、自分としては、以前と変わりない状態まで戻っていると感じていた。しかし検査となると、左をやって次に右という中で明らかに右のヘッドホンの音の方が小さく聞こえる。で結果を6月と比べると、検査結果としては右も左も同じように聞こえているのだそうだ。8000ヘルツの高音域帯以外は。6月の時は左に比べ、右耳のグラフは大幅に低かったのだが、最後の検査では最高音域を除き、見事に揃っていた。やはり、音は耳で聞くのではなく、脳で聞くのだろうか。

 未だかつて経験した事のない、鼓膜にメスを入れるという手術を2回も経験し、しかも、チューブという異物を入れて約半年、長い長い戦いだった。終わってみれば、2度とやりたくはないにしろ、いい経験だった。

 今回の体験で分かったのは、風通しをよくするのが何より大切ということ。もう鼓膜の穴はふさがってしまったが、せめて鼻づまりくらいはなるべく回避しようと思う。2度と鼓膜に穴を開けないためにも。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/25

続々・鼓膜に穴を開けてチューブを入れる

 鼓膜に穴を開けてチューブを入れるシリーズもいよいよ第3段になる。インターネットで調べると、チューブはすぐ取れてしまう場合もあるし、2年くらいそのままの事もあるという話だったので、私の場合も月1回の通院を延々と続けていくのかと思っていた。

 月いち通院になって4ヶ月目の今月もそのつもりで耳鼻科に行ったのだが、今回は久々に聴力検査をしましょうという事になった。例によって暑苦しい、狭い個室に入った訳だが、椅子に座るなり、呼吸が乱れ始めた。息を整えようと、深呼吸をするが、呼吸は乱れていくばかりである。これは軽い閉所恐怖症じゃないのか、などと余計な事を考えていたので、ピー音に集中する事が出来なかったのだが、なんとかこなして外へ出た。

 検査の結果はチューブを入れる前よりだいぶいいとの事。続いて耳管の通りを調べる事になり、パフパフクラクションのような器具で耳の穴から空気を送ったり、逆に吸い込んだりという検査をする。喉の奥がうっと来るような感じになり、耳管の通気も大丈夫という事になった。


 「じゃあ、今日時間あれば、チューブ取りましょうか」


 いつも心の準備にお構いなしに唐突な先生だ。まあ、今度は穴を開ける訳じゃないから、あの千枚通しみたいなメスは使わないだろうと、はいと答えて取ってもらうことにした。前回、米粒より少し大きいと書いたが、取り出したその緑色の物体は米粒より少し小さかった。そして、チューブを取ってパッチを貼ったら、あれ不思議、さっきよりもっとよく聞こえる。これで穴が塞がったら、もっとよく聞こえるようになるかな?などと勝手に想像しているが、また水が溜まったりして。

 次回、通院は2週間後。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/11/11

逮捕はしたけれど

 突然ことり氏が「リラックマ」にしたので、じゃあ俺は「たれぱんだ」か「お茶犬」でも、と思うのだがやっぱりそこまでの勇気はない。

 私はと言えば、テレ朝の刑事ドラマ「相棒」にはまってしまい、この2ヶ月近くDVDを借りまくって、プレシーズン3話から始まり、シーズン1-12話、2-21話、3-18話(本来19話だが1話欠番がある)、4-21話、5-20話、6-19話、7-19話までの全133話(内19話は90分~150分のスペシャル)と劇場版2作を見て、現在のシーズン8はリアルタイムで既に4話まで見ている。

 で、おとといようやく全話視聴達成したと思ったら、昨日市橋が捕まった。捕まったこと自体は大変喜ばしいことなのだが、相棒ばかり見ていたので、細かい事が気になってしまう。市橋の指名手配、逮捕の容疑は死体遺棄である。誰もが市橋が殺したに決まってると思ってこの数日間の急展開と劇場型護送劇を見ていた訳だが、事件発生から2年半以上経つのに、未だに容疑は死体遺棄だけである。つまり、市橋が殺ったという物証はあがっていないということだ。物証があれば、指名手配の容疑は殺人になっているはずなのだ。

 状況証拠は真っクロだが、物証はないとなれば、あとは自白が頼りというのが、長年の日本警察及び検察の起訴への道筋なわけだが、これを書いている逮捕2日目の夜になっても、市橋は事実上の黙秘を続けている。このまま自白も物証もなくて、果たして今の人権社会で起訴出来るのか、起訴したとしても公判維持が出来るのか。甚だ疑問である。死体遺棄だけだったら、3年以下の懲役、正直言って微罪だ。裁判員裁判にすらならない。

 しかし、一部の人権派弁護士を除く全国民が、どう考えたって状況証拠から間違いなく市橋はクロと思っているのだから、ここは人権派に挑戦状を叩きつけるつもりで、殺人は状況証拠だけで送検、起訴にもっていき、裁判員裁判に持ち込んで欲しいものだ。裁判員裁判なら悪質な逃亡の経緯から考えて間違いなく死刑だろう。

 黙秘はしているが否認はしていないようだから、まさか裁判になってから新事実だとか、共犯だとか真犯人は別にいるだとかならないだろうが、もしそんなことになったらどんな騒ぎになるのだろう。相棒の見過ぎか。冤罪?あり得ないでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/17

福島瑞穂が日の丸に会釈した...ように見えた

 平野官房長官、原口総務相、前原国交相、川端文科相、中井国家公安委員長、新閣僚記者会見で壇上に上がる際国旗に一礼した大臣である。ちなみに、平野、前原、中井各大臣は退場時にもきちんと一礼していた。それ以外は藤井裕久も岡田克也も含め、素通りであった。その中で、勘違いかもしれないが、驚くべき光景が目撃された。福島瑞穂が立ち止まらずではあったが、国旗に会釈したのだ。DVDで何度も見直したが、どう見ても会釈している先に人はいない。あるのは国旗だけである。

 本当なら、この人の中味はいったいどうなってんだ。


 ちなみにブルーリボンバッジをつけていたのは原口、中井両大臣だけであった。


 さらにもう一つ、笑えたのが岡田外相が議員バッジをつけ忘れていたことである。民間出身かよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/16

福島瑞穂でも大臣になるとうれしいんだな

 消費者行政・少子化・男女共同参画・食品安全担当大臣。福島瑞穂がやると思うとゲロ吐きそうだ。それにしても、テレビでこいつのうれしそうな顔を見ると、社会党の残党でもやっぱり大臣病患者なんだなと思った。

 万一輿石だったらどうしようと、民主党が勝つ前から心配だった文科相に民社党出身の川端達夫氏が就任したのは不幸中の幸いである。旧民社党から3人入閣し、中井洽氏が国家公安委員長・拉致問題担当というのも、多少ホッとする人事ではある。しかし、旧民社党といえども、長い民主党暮らしでどう転向しているか分かったもんではないので、今後のこの政権の行方全体の中でウォッチングしていかなければならない。


 千葉景子法務大臣。うーむ、任期中死刑執行はないな。拘置所が死刑囚であふれるだろう。


 あとはおいおい触れていこうと思う。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/15

敬老の日じゃないんだよね

 どうも9月15日が祝日じゃないってのは、調子が狂う。代わりに来週シルバーウィークだか、秋のGWだか知らないが、はた迷惑な連休がある。いったいどこのどいつだ、ハッピーマンデーなんてふざけたこと考え出したのは。

 そもそも欧米から働きすぎだとの批判を受けたのを真に受けた連中、休日を増やして観光客を撒き散らそうって考えた連中、休みが増えれば国民が喜ぶとポピュリズムに走った政治家、そういった連中が祝日三連休化推進会議なんてくだらん民間団体を立ち上げ、政府も与野党も浮かれたようにあっという間にまず2000年に成人の日と体育の日、2003年に海の日と敬老の日を月曜日に移した。成人の日は小正月、体育の日は東京オリンピックの開会式の日、海の日は海の記念日とそれぞれ意味のある日だったが、アメリカ式の第○月曜日に変えてしまった。それは祝日とか祭日じゃなくて単なる休みになる月曜日だ。冬の第2祝日とか、夏の第1祝日とかいう記号と同じだろう。振替休日と併せれば、毎年何日の月曜日がつぶれるんだ。

 敬老の日は特別な意味があって9月15日になっていたわけではないが、戦後まもなく兵庫県の山間の村から兵庫県全体、さらに全国に広がったとしよりの日だ。それを年によっては秋分の日絡みで秋のGWになると踏んで、9月第3月曜日に移した訳だ。土曜、日曜と国民の休日、秋分の日に挟まれた中日の祝日を誰が老人を敬う日として認識するのか。それはただ5日並んだ休日の1日に過ぎない。

 ハッピーマンデーで得した奴はいるのか。景気が良くなきゃ観光は栄えない。学校行きたくない子供と先生が喜んだだけじゃないのか。子供にとってはゆとり教育に屋上屋を重ねる訳だからいいこととも思えない。さあ誰が喜んだのか。つまりはそう言うことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/14

北方領土のロシア側幹部に日露友好関係推進を期待される新政権とは?





 つまりはそう言う事だ。





| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009/09/13

タイトルは変えられない

 この前床屋に行った時に珍しくちょっと待ち時間があったので、本棚のマンガに手を伸ばした。1巻の半分くらい読んだところで、順番が来た。床屋のお兄さんがいう、「『MONSTER』すか、懐かしいですね」

 浦沢直樹がビッグコミックオリジナルで、「20世紀少年」の前に連載していたマンガだ。浦沢作品では、毎週買っていたビッグコミックスピリッツで「YAWARA!」と「Happy!」はリアルタイムで読んでいた。当時オリジナルは読んでなかったので、連載していることは知っていたが、別に浦沢ファンという訳でもなく、連載中はほとんど読んでいなかった。1巻の途中で生殺しになったため、速攻で全巻制覇に走ったのは言うまでもない。

 「20世紀少年」もそうだが、あれだけ展開があちこち飛ぶと単行本で読むならまだしも、月2回発行の雑誌だと何が何だか分からなくなるんじゃないか。作者取材のためとか急病のため休載なんてのもよくあるから、別の展開になっていると、あれっ、1回飛ばしちゃったかなって錯覚することもあるかもしれない。

 それにしても、連載作家ってのは、どうやってプロットを決め、タイトルを決め、連載を進めていくのだろう。「MONSTER」は単行本18巻だが、出版社の都合次第で長期にも短期にもなるはずだから、途中でストーリーが当初構想していたものと違っていくこともあるだろう。浦沢氏の場合、既に「YAWARA!」がスーパーヒットしていて、大作家だったろうから、よっぽど人気投票の結果がひどくない限りは自由に描かせてもらえると思うが、それでも、あれだけいろんな線から最後に一つの結末に導くとなると、担当とのやりとりもさぞかし活発だったのだろうと想像できる。

 連載開始当初から起承転結が全て決まっているわけではない。一つだけ決まっているのは最初から最後まで同じタイトルだということだ。話が変転していった時、途中でタイトル変えたいと思うことはないのだろうか。浦沢作品の場合、「YAWARA!」、「MASTERキートン」、「Happy!」、「MONSTER」、「20世紀少年」と変える必要のないタイトルが並ぶが、意味の不明なタイトルが付いている場合、読み進めていく読者はこれはどういう意味だと考えこんでしまう。あだち充の「タッチ」なんかいい例だ。

 だが、「MONSTER」も実は一人の怪物ではなく、いろいろな意味での怪物が出てきた。タイトルがプロットをふくらませるが、始めに決めたタイトルからは最後まで外れることが出来ない。書き下ろしは出版直前までタイトルを変えられるが、連載はタイトルを変えられない。

 私はこのコラムを書くとき、たいていタイトルを決めてから書くが、書いてるうちに書きたいことの内容が変わっていき、最後にタイトルまで変わっていることがある。連載なんて出来ないな。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

«腰が痛い